またまたアノドキュメンタリーフイルムを見てしまいました。服部文祥という登山家が北極圏にあるゴリギギトキン湖という湖に固有の魚、イワナを釣りに出かけた冒険の記録を。モンベル製の耐寒具に身を固めて、ミーシャという少数民族のガイド?とともにウガトキン川をさかのぼって、さらに峠を越えて氷と雪の湖畔にたどり着き、野営をしながらイワナの一種を釣るまでの一部始終。
こうなったら、自分以外の人が探検することに特別な興味を持つ私は、テレビから目がはなせなくなってしまった。この湖は350万年前に隕石が落ちて生まれた、孤立した湖らしい(まったく川がつながらない、入ってくる水系も、出てゆく水系もない)、それゆえ、その湖で取れる魚は固有の魚であるという論理。
冬の到来まじかの北極圏は雪と氷の世界で、服部は魚を手に入れて(ないしは味わって)
帰路に附くまであまり時間が無い。人っ子一人いない、見渡すばかりの雪の世界に、ただ移動するトナカイが1000頭も吹雪の平原を横切る。私は、いつもこのような極限の環境には魅入られてしまう。(自分だったらどうやって生きるか)と神が問うているような世界。木が少ないので、たき火にも事欠く。そういう夜は零下10度の雪の荒野の夜を火なしで過ごす。食べ物はもっていたトナカイの肉をスープにもできずに、ナイフで切って口に入れるだけ。
服部は言う「人間も自然の生き物、だから動物と同じ」だと、北極を生きる動物と同じ目線というか、状況を生きないと、北極では生き残れない。「自分をこういう冒険に駆り立てるのは、最小限度は持ってゆくが、あとは現地にある物を使って生きてゆくこと、つまり動物と同じレベルにたつ」という意味だ、と。スコットも、アムンゼンも、シャクルトンも、植村も結局は同根だろう。冒険家は命を懸ける。よってその支えになる哲学は彼らにとっては必至なのだろう。