最近街頭のデモが盛んになっています。わたしは最近2回、デモに参加したくなりました。近代国家というものは、政治に直接参加できなくても、また政治に異論があれば、デモに参加することによって私たちの意見や主張を政治家に伝えることができるということを学びました。この数年来、私は、デモは社会主義者の特権ではなく大衆や国民の主張の有力な手段ではないかと思うようになりました。

最初に香港の道路占拠です。私はよくは知りませんが、香港のデモの発端は、香港政府の中国寄りの姿勢が問題なのではないかと思っています。たとえば行政官を選ぶにあたり、中国共産党が指名して送り込んでくる。本当は香港国民が民主的に選びたかったが選ぶことができない。選挙がないのかもしれない。選挙はもっとも民主的な方法と言えますが、

選挙ができないとなれば、選挙制度を要求するのが当然でしよう。私は香港がもっと民主国家になりたいのに、中国が邪魔をして相変わらずの影響力を行使したがっていると考えたので、デモに参加して政府と中国に民衆の意見を伝えたかったわけです。二つの顔を持った国の悲劇は終わらないのです。

もう一つの出来事、アメリカで白人警官が黒人に暴行を企てたにもかかわらず、無罪になってしまう裁判です。無論警官には捜査とか逮捕の権限があります。しかし行き過ぎるととんでもないことが起きます。そこが非常に難しいのです。警官は捜査する義務を負っていて、それを実行しようとします。ところが容疑者は無罪か有罪かはわかりません。いつも警官はポケットに手を入れる黒人の容疑者を放っておいたために銃で撃たれてしまいます。そんなことが何度も何度もありました。ですから、容疑者がポケットに手を入れると警官は反射的に身構えたり、銃を構えたりします。

あまりに犯罪者が多くて、余裕がなく、とっさに自己防衛のために銃を取り出して発射したりしてしまうのです。そうでないと銃を持てる社会では、逆に容疑者に打たれてしまうのです。裁判の陪審員は白人の方が多いようですね。ということで、裁決の時は多数決で白人の方を無罪にしてしまうのでしょう。これでは黒人はたまったものではありません。事件を裁判所に送っても結果がわかっているのですから。そういう不公平とか、裁判制度の欠点を是正しようとして、デモを仕掛けて、政府とか法律の万人に訴えかけています。私も、デモに参加して次のように訴えたいのです「犯人でもない容疑者を銃で撃ったりするのはまずい。それは警官の犯罪です。しかし、警官自身も路上での取り調べの初動の時に身を守る方法がない。と言うことは、容疑者もどのような状態で取り調べを受けるかを学ばなければならない。つまりポケットなどに手を入れたり、何か持っているそぶりをしないことを学ぶべきではないか」と。デモは圧力団体だけがするものではないのです。弱い者こそデモを通して訴える力を発揮しなければならないのです。