わたくしはかなり年を経てふと気付いたことがあります。通勤電車のなかで前に座っている私くらいの年齢の老人が、いかにもつらく、苦しい顔をしているのです。しかめ面をして座っている老人たちを見るにつけ、「老人の外見は醜い」という結論から逃れるわけにはいかないのです。では、どうしたら外見の醜さを変えられるのか、回りを少しでも楽しくさせられるのか、考えました。そのとき、すぐ結論が出ました。そうだ、「笑顔を忘れないように」しましょう。老いて忘れてしまうこと。それは「私たちは自分のために生きてゆくのではなく、人のために生きるのだ」という真実です。

こんな風に考えていくと、ソレはまるで曽野綾子さんみたいな発想になるようです。曽野さんはいつも老人の独立を唱えます。肉体的には衰えても、精神は強く独立していなければなりません。実際はなかなか徹底は出来ませんが、人に迷惑をかけての残りの人生を送るよりも、人を助けて生きるのが人間の務めなんだと私も思うことがあります。私はどうして曽野さんが好きなのか、よくわかりませんがが、彼女がクリスチャンだからでないでしょうか。

私はクリスチャンではありません。その手の大学は出ましたが、特に帰依したわけでもないのですが、曽野さんが「騒がずに運命を受け入れろ」とか「常に問題に直面するのが人生だ」とか「自分は自分で人と融合できるなどと考えるな」など、私はいつも胸を打たれながら著書を読み進みます。幸せとは、栄耀栄華ではないでしょう。いやソレも幸せの道具かもしれませんが、教養ある人は、それよりも、笑顔と楽しい会話、そして神を敬うこころ、回りに気を配り、少しでも役に立とうとする精神、幸せは、こういうごく自然の振る舞いの中に見いだされると思うのです。

だって、そうでしょう。いまさら美食を求めるエネルギーもないし、他人のお愛想で喜ぶほど若くはないのですから。神は良くしたもので、老人のエネルギーが減って来るのは、神に召される時期が近づいているから、余計なエネルギーはもう要らないと、人間から生きる執着心を持ち去ってしまうのでしょう。よく老人が「ああ、もう死にたい」と愚痴るのは、半分は本当かもしれませんね。