お正月のレストランでこと、わが息子が突然日本酒を注文した。え、いつもはワインバカリではないの?と無言で息子の顔を見る。しばらくして、日本酒とおちょこ風のグラスが卓上に運ばれた。

「これしってる? ダッサイというんだ。」 幸いというか、ダッサイという日本酒については最近雑誌の記事を読んだばかりであった。「知っているよ。一口試させて」とガラス製のおちょこを口にした。一口、口に含んでみたら、味わいが良く、口の中に風味というか、ふくよかなお酒の味が広がった。この酒をアメリカで醸造する気風が今盛り上がっているそうだ。

これが流行というものか。少々感慨深かったが、そのときよみがえったのは、10余年前に友達から頂いた「太平山」(たぶん大吟醸だろう)を冷で一口飲んだ時のおいしさである。そのときの舌というか、のどというか、反応がはるかに印象が強かったのだ。おいしいね太平山。と私は家人につぶやいたのだ。それ以降、この酒を超える酒を飲んだことはない(無論、そういう機会もない)。

ダッサイはなぜ人々の口端に登るようになったのか、理由は知らない。多分外国人の観光客が好んで飲むようになったからであろう。明治以来、日本人は外国人に認められることを意識して、大変喜んでいる。あの競馬で凱旋門賞が日本の馬主の最終目標のように渡仏に熱中すること、ギネスに何が何でも乗りたいという意欲、少し怪しい歴史遺産を売り込む人たち、270年間の鎖国時代からの情報と貿易の遅れを取り戻そうと躍起な人たち、を見るにつけ、少しゆっくり歩いたらいかが、と言ってあげたいような気がする。文化にさきもあともないのではないですか。

ダッサイを飲みながら、ふといつも、自分の中にわだかまっている文化の問題を反芻していたのだ。