嵐が通過している。私が居を構えた武蔵野の一角も昨夜、強い風雨が時速60キロの速さで通過して日本列島を北上した。外壁に突き当たる風が「ヒュー」と、まるで管楽器を耳元で思いきり吹くような、金属的な叫び声をあげていた。私は真夜中に眠れず、身をすくめながら時間の経過をただ我慢していただけだった。
気を静めるため、私は借りていた本「セロニアス・モンクのいた風景」(村上春樹 編・訳―新潮社 2014.10刊 Y3000+税)を取り出した。しかし風の音が大きくて、なかなか本に集中できない。セロニアス・モンク はジャズピアニストで、1960年ごろ一世を風靡した。わたしは、当時、もうすこしポピュラーな マイルスとか、オスカーピーターソンとか チャーリー ミンガスのような演奏家に気を取られていて、当時はあまりモンクのピアノは聞かなかった。無論、変人で天才、独自の音とか和音を創り出していたモンクには注目はしていたが、何しろ、そういう人だから、お金儲けに縁がなく、アルバムの数もしれていたのだ。
いまになってみて、何か忘れ物を探し当てたような気になって、図書室から借り出したのが、この本である。「ジャズを本で読む」まったくおかしなアプローチだが、とにかく読んでみたかった。また、ハルキストではなく、むしろ、ノーベル賞はとれないとみている私としては、むしろ村上の編集とか翻訳は大いに買っていたのである。彼は創作の力量よりは本当はそっちの方ではないかと思っていたのである。
芸術家は、たとえそれが画家でも、演劇派でも、オペラに歌手でも、創造的でなければならないという一生の命題を背負う。モンクを聞くと私はしびれた。どうしてここでこんな音を出すのかなと、大学生だった当時のわたしはLPとかSPから耳に入ってくる非凡な演奏に身震いしたものである。ピカソが永遠にピカソであるように、モンクはいつまでもモンクである。私は嵐が通り抜けた静けさの中で、もう一度モンクを聞きたいな、と思っていた。