日本中がこぞって世界遺産登録に熱中している。わたしはそのたびに危惧の念を持つ。特に今度の「宗像・沖ノ島」については、登録おめでとうとの気持ちはあるが、一方私の気持ちの中には「おやめになったら」という声が消えない。凄い矛盾を抱えているから将来禍根を残しますよ、と言いたいのだ。今京都はごみの問題で困難に直面している。実に痛々しい。京都は社寺などの遺産を解放しているので、世界中から観光客が訪れて、町を汚していく。京都は元もと「一現さん」と言って、外部からの訪問を拒否してきた歴史がある。しかし、観光客はものすごく消費もするので、その魅力にはあがり得ない。
「お金に目をつけたら、ごみもついでに集まった」ということだろう。この矛盾を京都は自ら解決しなければならない。「宗像・沖ノ島」もこのようなタイプの苦難が待ち受けている。登録の快挙の後のテレビの案内では、ここは航海の安全を守る神のいるところで島全体がご神体ということになっていて、一般の立ち入りを禁止している。ここがポイントだ。なぜ、この地方の人たちは、世界遺産に登録したかったのだろうか。名誉か、知名度か、はたまたお金か、これからは観光客が内外からどっと押し寄せる。
観光客は地元にお金は落とすが、ごみや喧噪からは逃れられない。もし神がいたとして、神はそれを喜ぶだろうか。それに、この地方が長い歴史があるとはいえ、世界にその名を知らしめる必要があるのだろうか。今までの「島全体が神とか、人間は年一度しか、触れられない」という、たくさんの制約があるが、その掟を破ることになってしまうが、それを許容するだけの価値が「登録」にあるのだろうか。私には、福岡のこのあたりは、名を取って実を捨てているような気がしてならない。