ときどき青い空を見上げると、白い雲や飛行機雲、ヒヨドリの飛翔、などが目に入ってきます。時には風船が地上から浮き上がってしだいに空の中に溶けてゆくこともありますね。逆に下を向いて歩いていくと、目の中に入ってくるものと言えば、道路の上のゴミ、タバコの吸い殻とか、人形の片足とか、人間に捨てられたあらゆるもののほかに、土のうえにのこった車や自転車のワダチ、ミカンの皮、ボールペンなどなど、つまらないものばかり。

写真家赤瀬川原平は街を歩きながら「路上観察」をしていて、興味ある被写体に出会うと、パチリと写真を撮ります。路上には彼が好きな「意味のないもの」「つまらないもの」「ナンセンスなもの」があふれています。たとえば、道路際にコンクリの階段が5段ほどあって、階段を上った突き当たりがコンクリで固めてあるような風景。何のための階段か。

つきあたりがコンクリで塗り固めてあるのに、なぜ階段だけが残っているのか、昔は何かの出入り口だったのか、など興味が尽きないようです。

彼は路上観察学会を主催していて、数人の会員がいるようです。たとえば漫画家?の南伸坊などもその一人と聞いています。聞くところによると、会員はしょっちゅう北から南までカメラをいくつかぶら下げてうろうろしているようです。赤瀬川はあるときはライカ3-Cとか、リコー35とかのほかにペンタックスのMZ-3などをいくつも携行してゆくのです。特に中古写真機収集家の赤瀬川は症状が強く出ているのですね。私も真似というわけではないですが、土とかコンクリの道の上に落ちているものを撮るのが好きです。ある日、公園のベンチの前の芝がはげた土の上に落ち葉が数枚落ちていて、人に踏まれてくたくたになったところを写したことがあります。誰もそのような被写体に目は向けません。

ところが、その写真が私が所属する「永風会」の勉強会で物議をかもしました。「いったいこの写真は意味があるのか」とか「人に踏まれてくしゃんとなった枯葉はまるで我々の人生そのもの」とか、この写真が人々の関心を呼び起こしました。きれいな風景や、花や、ペットなどの受け入れやすい写真よりも、もっと奥があるというか、異様な感じをあたえています。

路上に落ちているもの、置いてあるものは大体がその時代、時期を象徴しているはずです。たとえば人気ブランドの牛乳のあきボックス、新聞のチラシのきれっぱし、インスタント食品の包装箱、きのう今日売れているもの、流行しているものが中心です。私はこれから、空を見上げるよりは、首を少しうなだれるようにして地面にあるものや地上に映る影を気にしながら散歩することになりそうです。ただ最近は行政の清掃が行き届いていていますので、戦後の焼け跡のような写真上での「お宝」にめぐり合うことはないでしょう。