カズオ イシグロ氏が2017年のノーベル文学賞を取った。多少は驚いたが、もし村上春樹が取ったら、私はもっと驚いたろう。10年ほど前、私が働いていた頃、気になっていた、イシグロの「日の名残り」を読んだ。大活劇もなければ、大恋愛もない。地味と言えば地味だったが、イギリス執事のささやかな恋愛、仕事を耐えている心境、自分自身の生き様、心にとどく静かな文章、とかこういうものが文学なんだと納得したことは覚えている。

春キストには、私の論評はきつすぎるとは思うが、私の読後感を何回も反芻しても、村上はノーベル賞に値するとは思えなかった。少なくとも、今までのところは正解でしょう。それよりも春キストに問いたいことは、村上春樹のどこが、読者を心酔させるのかしりたいということだ。春キストはもしかして、本当は文学のことが良くわからないで、ただただ文学の英雄がほしいのではないのか、と私は自問する。

村上春樹が私をとらえたのは、処女作品の「風の歌を聴け」であった。そして 以来 スコット フィツジェラルドを主人公としたエッセイのような小説を上回る作品は出ていないというのが私の感想である。それほど処女作は良かったのだ。私がもし人生の中で、良書と思った本を10冊選ぶとすれば、「風の歌を聴け」はサマセット モーム の「人間の絆」とともに、私のトップ10に入るのだ、が しかし、その後、出版されるたびに読んだ村上の作品では、それを上回るのには出会わなかった。

いくつかの点で、私は村上を評価しない。まずは「知ったかぶり」で、ある小説では女中にジャズの名演奏家を言わせたり、また月が二つあると「荒唐無稽な設定」をしたり、小説とは空想の産物とはいえ、なんの意味もない舞台装置にはうんざりする。同じシーンがいくつも重なって退屈する。本人は自分はノーベル賞の候補者だと期待しているならば、はっきりとは言えないが、それは何かが間違っていて、ノーベル文学賞を授与できそうな候補者にとっては、喜劇なのか悲劇なのか。

逆の言い方をすれば、私には村上のおかしな舞台つくりとか人物設定を理解する能力がないということかもしれない。私はたぶんは現実主義者で、村上が蒔いた多くの仕掛けを見逃したともいえよう。ただ今まで、村上がノーベル賞を取れなかった理由を、英語民族評論家の誰かに解説していただければ、私は多としたいのだが。

友人の文学賞受賞候補者のひとり、田山さんは 「カズオ イシグロ? 当然です、人物など書けているから、私は新刊一冊を除いてイシグロの作品はすべて読んでいます」と。