今大型連休のまんなかです。そして暇を持て余す私は、5月1日の新聞の特集、カバーストーリーとなった「給与水準の高い企業を取り上げている記事」に注目することになります。基本、私はこういう取り上げ方は反対です。こういう情報というか、データーベースを応用することは時代であって、まあ、昔と比べてオープンになったものだという感慨はありますが、原則的には、「人様の収入を知って何になる」という批判を私はしているのです。

わたしの時代は雇用は硬直的で、一度就職すれば、ほぼ永久にその会社にとどまって、いわゆる給与は固定する。今は。もしその気になれば新聞が取り上げた高給与会社に就職チャレンジができなくもないだろう。しかし、私は社内の同僚の給与情報を持たないで、20年間C社で働いてきた。身内の誰かが私に「ほかの仲間の給与水準を知らないで平気なの?」と尋ねるが、「ああ平気だよ、どうせ俺がトップさ」、とうそぶくのです。

自負していることは、自分は会社に大いに貢献してきた。したがって、会社も私に応分の給与を支払っているはずだ」と思っていいたのです。それに、他の社員の給与を知ってどうなるのだろうか。上司に抗議でも申し込むのかな。もし私の給与が不当に低いと思えたら、そのときは他社を狙うという手もあるのですね。

昭和35年、社会人になった時、私は証券会社に入社しました。クラスの同級生たちは初任給が高いというはっきりとした理由で、伝統的な(例:日本鉱業とか日本郵船などの)老舗を選んでいた。今振り返ってみても、答えはないのだが、私はなんでそんな短絡的な、未来志向ではない基準で会社を選らぶのかわからないと発言している。私は、よくは知らないまま、入社するなら規模は小さくても将来性のある企業、産業を選ぶのが大学4年生の就職哲学の筋だろうなとは思っていたのです。日本の企業の役員などから後ろ指を指されながら外資に転職して、ファンドマネジャーの仕事を選べたのは、少なくとも、私の未来志向が根底にあったからでしょう。