運動選手にとって何が難しいかと言えば、引退時期を探ることと言っていいだろう。無論選手として自己の記録を更新続けることも至難ではあるが、スポーツは全力を出して戦うということによって、順位的には優勝しなくとも気持ちは妥協して、満足はするものだ。つまり、しかたがない、自分の能力以上の記録は出ないのだから。

ところがピークを過ぎてさて引退となると、彼らは一様に迷いに迷う。フェイム(有名)が後押ししてきたのだから、舞台から降りるに降りられない。最近の痛々しい(見た目と精神状況と)例はテニスの伊達さんだ。もっと早く引退していれば、今のような痛々しい有様をテレビにさらさないですむ。フィギュアスケートの真央ちゃんも迷いに迷って、ついに自分お限界を知り、受け入れなければならない運命をさとったようだ。

ほぼピークに引退してしまったのは荒川静香さんだ。彼女は自分と環境(他国の選手のこよなど)を洞察して、私はここで終わりと悟ったと思う。しかし、まったく気持ちの葛藤がなかったと言えば嘘になるであろう。彼女のような選手は稀ではある、できればインタビューしてみたい。選手はピークを更新しているときは、ファンも含めて、無限の未来を夢見る。しかしいったん、これ以上の記録は肉体的精神的にも無理ということを受け入れると、さて気持ちが乱れるのだ。

「月に叢雲(むらくも)、花に風 サヨナラだけが人生だ」と古人は言うではないか。アスリートはいい時期は続かないという永遠の原理に翻弄されるのだ。わが同胞の野球の長嶋も最後の数年は実に哀しく惨めだった。記録はだんだん落ちてゆく。本人はまだいけるかもしれないというほのかな希望をもってシーズンを終える。ファンもまだまだ、、などとほめそやす。私は打率、本塁打という隠せない記録を見ながら、「あーあ、止め時を失ったな」と同情したものだ。つまり、運動選手もそして、多分、芸能人もやめ方に本当の自分の姿(落ちてゆく自分)を大衆にさらけ出す。これほど重大な人生の一瞬、やめる美学を文学にする作家はいないものか。

今華やかなアスリートたちは、柔道とか、バドミントンとか、水泳とかでは、世界選手権で金、銀のメダルを手に入れて、大いに日本も涌いている。そして。アスリートのコメントはすべて「2020年のオリンピックでも頑張ってメダルを狙う」と決意でインタビューを締める。スポーツ選手にとって3年は長い、とてつもなく長いのだ。もう一度2020年の夏に理想的な精神的、肉体的ピークを持って行けるかどうか、私は不安が尽きない。逆に、今回負けた列国の選手たちの目標はつとに2020年にあったのではないかとも思ってしまう。